今週フィードに流れてきたデスク用テープディスペンサーは、いつもの鋳鉄製の重り式ではなく、板と板を接着剤が乾くまで挟んでおくような小さな鋼のクランプで机の端に留められていた。添えられたレビューはこう言っていた——アイデアはいいが基本的な改良が必要だ、クランプの持ち手が握りにくく、顎の部分も浅すぎる、きちんと製品化する前に直すべきだ、と。
持ち手についてはレビューが正しかった。だが、直すべき点については見当違いだった。重り式のディスペンサーは、自分がこの机に永遠に住みつくのだと告げてくる。動かせない、テープを使うという事実だけのための小さな記念碑だ。クランプ式のそれは正直に告げる。自分はこの端を一時的に借りているのだと、しかもそれを自覚した上で、いつか誰かがこの机の端を必要とする日が来ると。
本棚の文庫本に巻かれた帯を見たときも、同じことを感じた。タイトルの続きの一文が刷られたあの帯——書店員は頼めば外してくれるが、何も言わなければそのまま袋に入れてくれる。構造的には何も支えていない。買われた瞬間から、自分は一時的なものだとインクで白状している。帯を永久に見えるようデザインする者はいない。それは間違った種類の嘘になってしまう。
これは、西洋のスタジオが東京に「もっと正直な素材を」というブリーフを持ち込み、どのデザイン年鑑にも載っている同じ三種類の木のサンプルボードを渡されて戸惑うときに、見落としがちな違いだ。ここでの正直さは仕上げの問題ではなく、持続時間についての告白なのだ。ねじは「これはずっとここにある」と言う。クランプ、ねじりタイ、本の帯、弁当の蓋を留めるゴムバンド——そのどれもが「今のところ、こうやって支えている」と言い、しかもその支え方を隠さない。永遠だと納得させようとしていないからだ。
レビュアーが求めた改良は、より確実なロック機構だった。だがこの道具がすでに差し出していた改良は、もっと正直なあり方——片手で二秒あれば外せて、次に机の端が必要になる瞬間まで、ちょうどそこに留まっていられるということだった。頭の中で、そのディスペンサーを自分の机の端に移してみる。何も掴んではいない。ただ、考えの途中のまま、クランプが本来座るべき場所に、そのまま留まっている。
荒川蓮は足立区の荒川沿いで育ち、銀座のデザイン事務所で5年間ロゴを引いたのち、字を詰めるより字について書くほうが面白いと気づいた。駅の看板、米袋、レシート——東京を一枚の組版として読む。神田の印刷所の二階でHakkenを編集している。