混沌もまた、ひとつの規律である
火曜、ドーバー・ストリート・マーケットの地下に立った。三十数年分の雑誌の見開きが、額もキャプションも順番の説明もないまま、ただ上に重ねてホチキス留めされている壁の前だった。神田の電柱にチラシが積み重なっていく様子に近い——誰も整理しない、ただ積もっていく。
その壁はコム デ ギャルソンの雑誌『SIX』のもので、Wallpaper*は今週これを「美しく混沌としている」と評した。注目すべきは乱雑さそのものではなく、その内側に隠れている規律のほうだ。SIXは1988年の創刊以来、建築・デザイン・映画を写真で追う雑誌として続いてきたが、四十年近く、自社のブランドの服をほとんど載せていない。雑誌を持つファッションハウスが、その雑誌でファッションを売らないというのは、今年見たどのリブランドよりも奇妙な主張だ。
今季私の机に届くものの多くは、その正反対の発想でできている。マークの角は削られ、プレスリリースは会社が外部に発注して辿り着いた「シンプルさ」を、わざわざ長々と説明する。かつて自信とは、説明しなくても伝わることだった。今はサンセリフの書体で、誰かに代わりに説明してもらうことを指すらしい。
神田のあの電柱は、SIXと同じ仕事を無料でやっている。誰も整理しない。三月の迷い猫の張り紙を剥がさずに、四月の居酒屋のチラシを半分重ねて留める。電柱は一度も自分を説明したことがない。重なり自体が唯一の情報だ——ここは貼られ、読まれ、そのままにされる場所だということ。これは見た目より難しい芸であり、今年見た多くのリブランドは、それを高いコストをかけて真似しようとしている。
雑誌の壁と電柱が共有しているのは、私が最近あまり見かけない、ある拒絶だ。どちらも「変わった」ことを証明しようとしていない。混沌は、本物らしさを装うためのスタイルではない。ただ、三十年、四十年同じことを乱されずに続けてきた姿が、外からはそう見えるというだけだ。
駅へ戻る道で、さらに三本の電柱を通り過ぎた。どれも他人の紙で何センチも厚くなっていた。ロゴより、チラシのほうが自信に見えたのは、久しぶりのことだった。
今週のワイヤーから
荒川蓮は足立区の荒川沿いで育ち、銀座のデザイン事務所で5年間ロゴを引いたのち、字を詰めるより字について書くほうが面白いと気づいた。駅の看板、米袋、レシート——東京を一枚の組版として読む。神田の印刷所の二階でHakkenを編集している。