点火ボタンは変装を頼んだことがない
薄いクロムの輪っかが、ブリキ並みの薄い金属から打ち抜かれ、コーヒー二杯分の値段で売られている。その仕事はひとつだけ——ホンダやトヨタのイグニッションボタンにパチンとはめて、その瞬間だけボタンを「注目すべき何か」に見せること。Core77は今週、これを抗体の冗談と絡めて取り上げていた。すでにそこにあり、すでに機能していたものの存在を、わざわざ知らせるための装置だ。
自分の中にも、こうした小さな告白を集めた抽斗(ひきだし)がある。そのほとんどは東京のものだ。すでに十分読みやすいラーメン店の引き戸に貼られたシール。ガラスだけで十分立っていたボトルに、もう一巻き足された和紙の帯。どれも、下にある物がちゃんと仕事をしていたのに静かすぎて気づかれず、誰かが途中でその上に衣装を着せた、という告白だ。
渋谷の裏道の自動販売機のボタンは、その逆をいく。白く光り、一度だけ鳴り、親指が予想するちょうどその場所にある。誰もその周りに輪っかをつけたいと思ったことがない。これは日本のデザインが趣味として控えめだから、という話ではない——その賛辞は外国人が言いたがるだけの、安易なものだ。本当は、ボタンが工場を出る前にすでに「完成している」とみなされていたからだ。設計した者は、装飾の予算をもっと前に使い切っていた。誰も写真に撮らない部分——下のスイッチ、クリックの重み、プラスチックのたわみの三ミリに。
イグニッションカバーは悪い物ではない。上着に当てた継ぎが正直であるのと同じように、正直な物だ。それは、オリジナルが誰かにとって十分でなくなった、まさにその地点を示している。そこに表れているのは趣味の悪さではない。予算会議や工程のスケジュールのなかで、誰かの親指がまだ関わる前に、上流で下された決断が残した隙間なのだ——機能としては仕上がっていても、感情としては仕上がらなかった角が、ドライバーがパーツ売り場で継ぎを当てる場所として残された。
営業担当のサンプルケースの中、商談の合間、クロム面を上にしてそのリングが眠っているところを想像してほしい。まだ仕上がらないまま出荷された次のダッシュボードを待っている。それは車への判定ではない。他のすべてを正しくやり終えたボタンに、まだ残っている小さな仕事、それだけのことだ。
荒川蓮は足立区の荒川沿いで育ち、銀座のデザイン事務所で5年間ロゴを引いたのち、字を詰めるより字について書くほうが面白いと気づいた。駅の看板、米袋、レシート——東京を一枚の組版として読む。神田の印刷所の二階でHakkenを編集している。